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4-12. 執務空間 (2)
以前に「オフィスのルーツ・日本編」の稿で「武士の家計簿」について言及しましたが、江戸時代の藩の御算用者、つまり今で言えば行政の経理を担う部門にあたるでしょうか、その執務空間は畳敷きの広間に書き物をする台が並んだだけのところでした。お昼となれば各自が持って来た弁当を自分の机のところで食べる程度で、その他ミーティングスペースやアメニティスペースがその広間の中に区切られて在るということは少なくとも映画の中ではみられませんでした。上位の武士が物事を決める封建制度では藩内のことを合議で決めることはなかったでしょうし、意思伝達の場もそれぞれの上役のスペースで行われていたでしょうか。そもそもミーティングスペースの必要性はなかったと考えられるでしょう。また(上述の「武士の家計簿」に描かれていた加賀藩の御算用者は別かも知れませんが)、「元禄御畳奉行の日記 尾張藩士の見た浮世」には、当時の藩に勤める武士たちは月に3日程度しか出勤していなかった勤務実態が書かれていますし、そうなると勤務しているスタッフにそれほどのアメニティも必要のないものでしょう。
それを前提に現代のオフィス空間を考えてみると執務スペース以外にも多様な場所が設定されていますが、現代の働き方のニーズに対応してこれらのスペースが位置づけられていることが分かります。当たり前のことですが、会議をする必要がある仕事の仕方なのでミーティングスペースが作られますし、スタッフが疲れるから休憩室が用意されるということです。
4-12. 執務空間 (1)
4. オフィスビルの部分
本章ではオフィス全体を構成する部分についてのコラムを続けてきましたが、今までは周縁の部位についての記述が中心でした。遅ればせながら、本稿ではオフィスビルの中心を成す執務空間について検討してみたいと思います。
一般的な賃貸のオフィスは水廻り、廊下、エレベーター、階段などいわゆる共用部を除いた専有部分については、なにも設えられていないガランドウの状態で賃貸されます。そこで貸借人が自らの要請に合わせて間仕切りをして、家具を入れていきます。そのためアパートなどとは違ってオフィスに入居する際には少しばかり工事があることが多いですし、反対に退去時には原状回復工事をすることもあります。
形態の差はあれど古今東西を問わず、オフィスの執務スペースの単位はデスクであり、複数のデスクが並ぶ室内風景が執務空間としては一般的だと思います。オフィスのメインはこの執務スペースです。過去にはそこに書き物をする道具が置かれていましたが、現代では概ねパソコンが乗せられていることでしょう。
また、小さなオフィスでもミーティングスペースは確保されているように思います。その他に執務をサポートするスペースとして、書類をまとめて保管するファイリングスペース(あるいはファイル用の棚)、倉庫(あるいは収納家具)やプリンターやコピー機を設置するスペースも考えられます。またそこで執務する人のための休憩室や図書スペース、本社ビルならば食堂なども有り得ます。あるいは来社したお客様を迎える待合室やショールームなどがあることもあるでしょう。
5-4. カーペット (10)
記録として残っているレッドカーペットの最初は、1821年に米大統領のジェイムス・モンローが河岸に着く時に敷かれたというものがあります。また、1902年にニューヨーク中央鉄道で乗客を案内するために敷かれたという記録があり、近代のレッドカーペットのもてなしはこれが起源だと言われているようです。
ちなみに日本でも神社でお祝い事があるときでしょうか、赤いカーペットが敷かれていることがあります。この赤絨毯も意味的には同じようなものなのでしょうが、どういう経緯でこのようなことをするようになったかは筆者は調べられませんでした。
何はともあれ、このように歴史の長い間に渡って、カーペットは高級品、あるいは権威や歓待の象徴でありました。近代になってこれらの意味は捨象されて、機械化された生産により価格も下がり、実際的な建材となりましたが、背後にはこのような歴史が会ったことを思うと、カーペットもまた違った眼差しでみれるのではないでしょうか。
5-4. カーペット (9)
ところで権威の象徴としてカーペットやタピスリーが扱われていた例を先に述べましたが、現代においてもカーペットが特殊な意味をもつ場面があります。それは「レッドカーペット」です。
先日、イギリスのフィナンシャル・タイムズで、「中国の李克強首相の訪英前に、中国側が『李首相を迎える際、ロンドン・ヒースロー空港に敷かれるレッドカーペットが標準に達していない』とクレームをつけた」という記事が掲載されたそうです。一般的にぱっと想像するのはアカデミー賞の授賞式などで、俳優が会場に入る際に入口から車の乗降口まで敷かれるものですね。
これらの例は要人を迎える、歓迎の姿勢を表現するためのもので、権威の象徴としてのカーペットに近いニュアンスのものです。ただ、なぜ「レッド」カーペットかというところは、ひとつの起源が通説のようです。時代は古代ギリシアまで遡って、紀元前458年にアイスキュロスによって書かれた「アガメムノン」の内容に入ります。
アガメムノンがトロイ戦争から戻ってきた時に、妻であるクリュタイムネストラが彼に赤い道の上を歩くように進めたところ、そのような豪華な道の上を歩けるのは神々だけだ、として断ったという逸話があります。そこでは明らかにカーペットとは書かれていないものの、その後「赤い道」をつくるためにレッドカーペットがつくられたと解釈することはできます。
5-4. カーペット (8)
先の「貴婦人と一角獣」は15世紀末にフランスで発注されてフランドルで織られたと書きましたが、その後1615年にはManufacture de la Savonnerie(石けん工場の跡地につくられたので「石けん工場」という意味)がパリのセーヌ河岸、現在のパレ・ド・トーキョー付近に建設され、カーペットやタピスリーが生産されるようになりました。設立者の一人であるピエール・デュポンはトルコを旅行してその際に学んだ技術を持ち帰り、”ルヴァン風ヴェルヴェットカーペット”の生産に成功しました。その後、各世代のフランス王、アンリ4世、ルイ13世、ルイ14世らによる国家的な後押しによって大いに発展し、フォンテーヌブローやヴェルサイユといった居城の床や壁を彩っていたようです。
ところで全ての織物に言えることは、染めの関係で織物工場は水辺にある必要があります。Manufacture de la Savonnerieは当初はセーヌ河岸にありましたが、組織を改編するようなかたちで、1826年には同じくパリ市内のゴブラン[Goblins]に移動しています。ゴブランにもゴブラン織りと呼ばれる織物が生産されていて、その歴史は16001年まで遡ります。現在も5区にゴブランという地名があり、工場が残っています。現在は暗渠化されていますが、以前はBievreと呼ばれるセーヌに流れ込む小さな川があり、その川の水を当てにして織物がつくられていました。