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9-4. NEWS X (5)
このような条件を整理した上で、設計上の最初のポイントとして、32mで10階建て、即ち階高3m程度の中にどのように構造を始めとする建築的要素を納めていくか、という課題に当たりました。
まずは一般的な構造形式を採用した場合にはどの程度の柱径、梁背になるかを構造設計者と相談して、そこからどのようにしたらそれらの断面を小さくしていけるか?というスタディを繰り返しました。柱の本数を調整したり、オーバーハングする部分だけ斜めの柱にしてみたりしましたが、なかなか断面は小さくなってくれません。途中の一つのアイディアとして梁を低くしたいのだから、スパンを短くすれば良い、つまり柱の本数を極端に増やす、ということを考えて検討してもらいましたが、確かに梁背が低くなったものの径が太い柱がたくさん並んでしまい、殆ど壁のようになってしまいました。荷重を分散しているから柱も細くなるはずと思っていましたが、地震時の水平力をもたせるにはどうしても柱が太くなる方向で耐えるしかない、とのこと。そこで構造設計者のほうから全て三角形にするトラスの構造体の提案がありました。トラスにすると全て軸方向に力が伝わるので、格段に柱が細くなります。ただそうすると今度は建築のプランが成り立ちません。そこで完全に斜めになっている柱を起こして2層あるいは3層に通る柱とし、さらに三角形を閉じるのではなく、カタカナの「ハ」のように頂点を離すことによってプランニングを成立させることを試みました。
9-4. NEWS X (4)
さて、脱線しながら土地の履歴をみてきました。このような履歴の名残か、西側の建物との間にはかなり昔から街路を横断する道があったようで、その部分は現在も通路として残しましょう、という取り決めを近隣住民間で交わしていました。幅2m程度の通路なので、おそらくそちら側に長屋の入口が並んでいたことでしょう。細長い敷地を短手方向に切るような路地はこの界隈にはいくつもあったようです。敷地の与件として、通路を確保しつつも、敷地内上部は建物として建てても構わないということだったので、構造的にはオーバーハングするというのがこの敷地の大きな特徴でした。
一方で中央区には建物を建てる際には「地区計画」という制度が地域によっては存在します。建築基準法をずらして、地域の特性に見合った建築計画、まちづくりが可能なように、という意図で20年ほど前に定められた制度です。色々と内容はあるのですが、ここでは大雑把にメリットとしては容積率が緩和されたり、道路斜線が適用外となったりします。そのために道路境界から建物をセットバックさせて、特定の用途を建物内に入れるということをしています。
計画としては当然、容積率を最大限に使い切りたいのですが、一方で最高高さが32mまでという制限が道路斜線の代わりに導入されていて、容積率を使い切って普通の作り方をしてしまうと、最高高さを超えてしまい成立しなくなりますし、最高高さから抑えていくと今度は室内の天井高さが全く取れないということになってしまいます。
9-4. NEWS X (3)
現在は因幡町という名称はなくなっていますが、1923年の関東大震災によってこの地域一帯は全て火災によって消失してしまったために、震災復興に伴って1931年に「宝町」という町名に改称されています。その後、1978年には再び改称されて、以前から存在していた京橋という地名に統合されて現在まで続いています。ちなみに鍛冶橋通りと昭和通りの交差点にある都営浅草線宝町駅の「宝町」という名称はこの1931-1978年に存在した住所に由来しています。
また、1978年に宝町から京橋に再び改称されたのは、1962年に成立した「住居表示に関する法律」に単を発しています。不動産登記などではよく目にする「地名・地番」は旧来、一般的な住所と同じように使われていました。しかし、町界が道路と一致していなかったり、地番も整然としていなかったようで、実際にはかなり不便なこともあったようです。そこで「地名・地番」とは独立した新しい規則をベースに住所を整理しましょう、というのがこの「住居表示に関する法律」だそうです。一方で「地名・地番」についても地域によっては「地番整理」といって分かりやすいように地番を付け直している場所もあるそうです。本敷地も地名上も宝町ではなく、京橋2丁目となっているので、地番整理が行われたということが分かります。
9-4. NEWS X (2)
グーグルアースで現在の衛星写真の上に古地図を重ねることが出来ます。東京の場合は1680年以降いくつかの古地図があるので、その土地の履歴として場所を読み取ることができます。上図はその古地図のうちでも最も新しい1892年の敷地周辺のものです。地図の精度がまちまちなのですが、1680年以降はこの周辺は街の骨格が変わることなく、現在のグリッド上の街区のルーツがかなり古いものであることが分かります。
さて、古地図にはお堀に面した個所は街区を跨いで「本材木町三丁目」という表記になっています。お堀経由で運んできた材木を取り扱う材木屋が集まっていた場所なのでしょう。現在は昭和通りと首都高速に挟まれた場所です。現在の昭和通りとNEWS Xの敷地がある街区は「因幡町」という名称でした。因幡の国は現在で言えば鳥取市とその近くの群に対応し、室町時代以降は長く山名氏の領地で、一時期は尼子氏、江戸時代以降は池田氏が治めていた領地です。もしかすると、因幡出身の人々が集まって住んでいたので、このような名前がついたのかもしれません。
※前回の記事で昭和通りがお堀であったと書きましたが、それは誤りでしたので訂正致します。首都高速道路が走っている個所がお堀と対応していて、昭和通りは過去の街区をぶった切って出来ています。NEWS Xが建っている街区が西の街区のグリッドと比べて長手方向が短いのは、元々は街区が昭和通りまであったからでした。
9-4. NEWS X (1)
9. その他のこと
今回は昨年の初め頃より設計を始めまして、9月末日に無事に竣工した東京都中央区京橋2丁目に建つオフィスビル「NEWS X」について書いていきたいと思います。
南北に通る昭和通りと東西に走る鍛冶橋通りの交差点には都営地下鉄浅草線の宝町駅があります。その北西側の街区で昭和通りから入ってすぐの敷地に地上10階建て鉄骨造のオフィスビルとして竣工しました。敷地はまさに都心そのものですので、江戸時代から古地図などが残っており歴史的に敷地周辺がどのようであったかを窺い知ることができます。当時はお堀であった現在の東京駅を境に、丸の内側は皇居の手前まで大名屋敷が広がっており、八重洲側には町人の街が広がっていたようです。鍛冶橋通りの鍛冶橋はこの東京駅のお堀を渡る橋だったようですが、その名の通り町人地側には鍛冶町や畳町、南大工町など建築に関わる業種の職人町であったり、具足町、南塗師町といった工芸に関する職人の街だったことが想像できます。
昭和通りがお堀であったことは設計者として把握していましたが、実際に工事を開始して杭を打ったり、基礎をつくる段階で多くの地中埋設障害物が出てしまいました。新築の建物が建つ前の建物は、戦後の昭和中期に建てられたベタ基礎で3階建て程度の鉄骨造の建物だということは分かっていましたので、それ以前の建物で地中埋設障害物が出るとは考え難かったのですが、結果的に松杭が出ました。近接する昭和通りがお堀だったので、恐らく地盤が緩くて杭を打って建物の基礎としたか、あるいは場合によっては堀に面した場所で荷下ろしのためのデッキ状の構造体を作っていたのか。真偽は定かにはなりませんが、想像は大きく広がる、場所の時間を感じられる敷地です。