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4-3. トイレ (11)

このトイレに関する原稿の前半、トイレ(3)でも書きましたが、谷崎潤一郎が『陰翳礼賛』の「厠のいろいろ」から、当時の昭和前半の日本のトイレ事情が察せます。そこで西洋式のトイレについての言及がありましたが、この時の「西洋式」という意味は、恐らく腰掛け型のいわゆる洋式ということと、白い陶器製の便器という二重の意味合いがあるように思えます。このエッセイが書かれたのは戦後すぐくらいだったように思います。
現在ではトイレ関連機器のことを衛生陶器と呼ぶほど、トイレが陶製であることは当たり前になっています。しかし、例えば時代を遡って江戸時代では排泄物を溜める容器に陶器を使っていた可能性はありますが、いわゆる便器の部分は木製でした。木製でも構わなかったのはその当時はまだ汲取式便所だったためで、水洗式になると便器に水分を流すため、木製では対応できないのは明らかです。また、衛生観念が一般に広がることを受けて、便器に陶器を使うようになっていったということがあるでしょう。

4-3. トイレ (10)

事実、下肥には栄養分が多く肥料としてとても優秀だったようで、野菜もおいしく出来たと言います。しかし明治時代以降、外国からもたらされたコレラなどの伝染病や化学肥料の普及、また食文化の変化により生で野菜を食べる習慣が始まったことによる寄生虫などの問題がでて来たため、徐々に下肥の利用は減ってきました。利用価値の下落は価格の下落を意味し、逆に処理に困るようになると屎尿の回収は料金を払って行うものと逆転しました。また、水洗になる前には浄化槽が普及し始め、それは臭気を薬で消すようになったので、そのような排泄物は下肥としては利用できなくなりました。
ところで基本的には下肥の回収はリアカーなどで都市の近くの農家が回収していたようですが、大正期末から昭和初期にかけては郊外に下肥を運ぶ鉄道が運行していたとのことです。特に第二次世界大戦中は都市部の排泄物を処理する人々も戦争に駆り出されていたため、一度に大量に都市外に排出できる鉄道輸送は処理をするという意味では効果的だったようです。しかし人々の栄養価が悪かったこの当時は下肥としての品質も悪く、また沿線の臭気の被害が相当なものだったとのことで、戦後にはもうこのような鉄道も無くなってしまったようです。

4-3. トイレ (9)

長い間水洗便所がなかったというのは日本も同様です。筆者(32歳)も幼少の頃、祖父母の家が汲取式便所で、その穴に落ちやしないかと恐怖していたのを今でも記憶しています。ちなみに私の祖父母の家は川崎にあったのですが、まだそれ程、都市部でも下水道が整備されていなかったのでしょう。下図は神奈川県の下水道普及率の推移です。

図4-3-6:神奈川県の下水道普及率

図4-3-6:神奈川県の下水道普及率

私が記憶しているのは昭和60年代でしょうから、その当時で50%も満たなかったわけです。現在では神奈川県では96.1%とほぼ全戸に下水道が普及している状態ですが、未だに人口の少ない市区町村にいくほど、普及率は低くなる傾向があります。
このように日本も長らく、水洗ではなく汲取式の便所だったのですが、かといって西洋のように不衛生な都市だったかと言えばそうではありません。江戸時代初期には15万人程度と言われている江戸は、江戸時代中頃(18世紀頃)となると百万人程の都市に成長していたと言われ、その当時のロンドンやパリと比較しても相当の規模の都市で一説には世界一の人口だったそうです。人が集まればその排泄物が問題になってきたのは今までに書いたとおりですが、江戸では人が出した下肥(屎尿)は農家が買い取る商品となっていて、代金として野菜などを置いていったようです。貸家が多かった江戸では下肥は大家のものと見なされていたようで、大家がそこから得る収入は相当な金額だったと言われます。もしかすると、その分、借主は同時に高額商品を生産するということで、家賃はとても安かったのかも知れません。時によっては農民が下肥の高騰に対して一揆を起こしたこともあったようです。

4-3. トイレ (8)

14世紀にヨーロッパ全土でペストが流行したことは、この都市の衛生状態とは無関係ではないと言われています。ヨーロッパの全人口の3分の1から3分の2の人口が亡くなったそうで、その割合たるや驚異的な数字です。1350年前後に書かれたボッカッチオの『デカメロン』は10人の貴人が10夜にわたってそれそれが面白い話をするという構成ですが、その背景となっているのはペストの流行で都市部には居られなくなったので郊外の邸宅へ逃れて退屈しのぎをするというのが前提となっています。
14世紀にこのような悲惨な状況であったにも関わらず、下水道の整備は遅々として進まなかったようで、パリの場合は19世紀中頃のオスマンのパリ大改造まで待つことになります。
その間フランスではブルボン王朝の全盛期などもありましたが、トイレに関して言えば相変わらずオマルを使用するか、外で用を足すということが普通だったようです。ヴェルサイユ宮殿にトイレがないという有名な話がありますが、それはおまるで済ませていたからです。貴人の場合には便の状況をみて健康を判断していたという話もあります。また婦人のスカートが大きく膨らんだ形だったのは、脱がずともそのまま用を足せるということもあったと言います。

図4−3−5:ヴェルサイユ時代のドレス

図4−3−5:ヴェルサイユ時代のドレス

4-3. トイレ (7)

(※注意:今回は特に汚い話です!)
いわばポットン便所なのですが、その後始末が非常に悪い。当然、下水道は整備されていないので、その溜まった汚物をどこに棄てるのかと言うと道に棄てていたとのことです。今でもヨーロッパの都市で中世の面影を残しているところに行くと、全面石畳で道に車道と歩道の区別がなく、側溝ではなくて道の中心に向かって勾配が付けられている道があります。つまり汚物を道に棄てて、真中に集まって流れるようにしていた訳で、下水道が地上にでて来ている状態です。
棄て方も悲惨なもので2階以上に住む人はオマルで用を足して、それを窓から道に投げ捨てます。当然、道を歩いている人もいるので汚物が掛からないように「Gardez a l’eau!」(水に気をつけて!)と3回言ってぶちまける、こんなルールが決められていたそうです。間違ってかけられてしまってはたまったもんじゃありません。
当然のことですが、整備された下水道の様に機能するわけはありません。街には汚物が溢れ、常に凄まじい臭気が立ちこめていたと言います。そういう状況もあって、臭いを誤摩化すために香水が発達したようですし、ハイヒールも汚物を踏んでも足には付かないようにとの配慮でデザインされたものだったようです。必要は発明の父とはこのことでしょう。