新着情報

4-3. トイレ (14)

フランスには建材の見本市で「BATIMAT」というイベントがあり、建築関連のあらゆる商品がそこで展示されており、今年は偶然、浴室関連商品の特集が組まれていました。日本での便器のシェアはTOTOとINAXの2社で大半が占められている一方で、欧州ではかなりの数のメーカーが様々なデザインの製品を出しています。つまり日欧の大きな違いは、日本の便器はデザインもさることながら、ウォシュレットや暖房便座などの便器特有の機能を付加することによって製品を刷新し、それが多くの人々の日常に受け入れられているのに対して、欧米では便器としての最小限の機能を充足した上で、後はデザインで製品の良し悪しを競っているという、市場環境の差が歴然としています。特殊な機能ではなくデザインで他社と差異化を計っているということは、日本に比べて多くのメーカーが参入しやすい環境です。
その「BATIMAT」にはTOTOも出展していましたが、高機能を売りにしているということもあり他社と比べると相対的に価格は高く設定されており(最高額商品で10,000ユーロ=140万円程度)、会場の中でも際立ったプレゼンテーションでした。

4-3. トイレ (13)

ところで日本では用を足した後にお尻を拭くトイレットペーパーも洋式便器の導入と同時期に使われるようになったようで、それ以前は籌木(ちゅうぎ)と呼ばれる木のへらが使われたり、カエデの木が便所のすぐ側に植えられていることも多かったようです。
本稿の冒頭にトイレの場合は歴史的な時間の流れもさることながら、地域による習慣の差が大きいと言ったことを書きました。現在では大抵、トイレは個室として在ることが世界的には共通しているようですが、やはり便器の形などに未だに地域差が反映されている点が見られ、とても面白いところです。
日本に居ると一般的になっているウォシュレット(これは正確にはTOTOの商品名で、本来ならば「洗浄便座」とでも言った方が良いのでしょうか。)や暖房便座などは、まさに日本の特有のトイレの形式と言えるでしょう。2010年時点で日本での普及率は70%を超えているほど一般的になっていますが、海外に行くと殆どありませんので、マドンナが来日時に「日本の暖かい便座がなつかしい」といった旨の発言をしたとのことです。

4-3. トイレ (12)

現在、日本の衛生陶器のシェアはTOTOとLXIL(旧INAX)が大半を占めていて、トイレは日常生活にも身近なものですので、一般的にも名が通っていることだと思います。TOTOの元々の名前は東洋陶器といって、その略称「東陶」からアルファベット表記のTOTOがブランド名、現在では会社名となっています。
TOTOは20世紀初頭に洋風建築の需要増加に伴って、日本陶器という会社内に衛生陶器の研究所として発足したのが始まりだそうですが、当初は市場が小さく難しい時期が続いていたとのことですが、その後、第一次世界大戦でヨーロッパにおいて生産力が衰えたことによる海外需要を満たす輸出用の製品や、関東大震災後の復興需要で業績を伸ばしたようです。また、その頃から東京では下水道の整備が進んで来たことも衛生陶器の普及に大きく貢献したことだと思われます。
このようにトイレは木製から陶製のものへシフトしていきました。

4-3. トイレ (11)

このトイレに関する原稿の前半、トイレ(3)でも書きましたが、谷崎潤一郎が『陰翳礼賛』の「厠のいろいろ」から、当時の昭和前半の日本のトイレ事情が察せます。そこで西洋式のトイレについての言及がありましたが、この時の「西洋式」という意味は、恐らく腰掛け型のいわゆる洋式ということと、白い陶器製の便器という二重の意味合いがあるように思えます。このエッセイが書かれたのは戦後すぐくらいだったように思います。
現在ではトイレ関連機器のことを衛生陶器と呼ぶほど、トイレが陶製であることは当たり前になっています。しかし、例えば時代を遡って江戸時代では排泄物を溜める容器に陶器を使っていた可能性はありますが、いわゆる便器の部分は木製でした。木製でも構わなかったのはその当時はまだ汲取式便所だったためで、水洗式になると便器に水分を流すため、木製では対応できないのは明らかです。また、衛生観念が一般に広がることを受けて、便器に陶器を使うようになっていったということがあるでしょう。

4-3. トイレ (10)

事実、下肥には栄養分が多く肥料としてとても優秀だったようで、野菜もおいしく出来たと言います。しかし明治時代以降、外国からもたらされたコレラなどの伝染病や化学肥料の普及、また食文化の変化により生で野菜を食べる習慣が始まったことによる寄生虫などの問題がでて来たため、徐々に下肥の利用は減ってきました。利用価値の下落は価格の下落を意味し、逆に処理に困るようになると屎尿の回収は料金を払って行うものと逆転しました。また、水洗になる前には浄化槽が普及し始め、それは臭気を薬で消すようになったので、そのような排泄物は下肥としては利用できなくなりました。
ところで基本的には下肥の回収はリアカーなどで都市の近くの農家が回収していたようですが、大正期末から昭和初期にかけては郊外に下肥を運ぶ鉄道が運行していたとのことです。特に第二次世界大戦中は都市部の排泄物を処理する人々も戦争に駆り出されていたため、一度に大量に都市外に排出できる鉄道輸送は処理をするという意味では効果的だったようです。しかし人々の栄養価が悪かったこの当時は下肥としての品質も悪く、また沿線の臭気の被害が相当なものだったとのことで、戦後にはもうこのような鉄道も無くなってしまったようです。