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5-7. 鉄 (9)
産業革命を経て、まずは橋に鉄が使われるようになりました。なぜ建築物にすぐに使われるようにならなかったというと、以前も「ビルディングタイプ」の稿で述べていますが、多くの既存のビルディングタイプに対して組積造の建築のもののあり方が、あまりにも鉄の存在と距離が遠いものだったからと言うことに尽きると思います。端的に言えば、鉄を見たときに発想が建築物に及ばなかったのだろうということだと思います。それほど建築とうい概念は近代以前においてはある意味で固定的だったのだと想像できます。
一方で19世紀には産業革命以降の産業構造の変化に伴って、新たなビルディングタイプが登場してきました。恐らく当時の人々はそれらを建築物とは見なしていなかったでしょう。だからこそ、そのような新しいタイプに対して新しい素材である鉄が使われるようになったのだと考えられます。土木構造物で言えば先述のアイアンブリッジに始まり、1889年のパリ万博に合わせて建設されたエッフェル塔などが有名なものですが、建築では恐らくロンドン博覧会の際に建てられた水晶宮(クリスタル・パレス)が初期の鉄骨造建築での最も有名な例のひとつに挙げられるでしょう。
5-7. 鉄 (8)
このたたら製鉄は近世まで継続して行われ、その後は開国を経て近代の製鉄方法を西欧から輸入することになります。
先述した近世までの西欧の製鉄ですが、いわゆるイギリスにおける産業革命を契機にその様相を大きく異なるものにします。その産業革命のきっかけとなったのが石炭の利用です。それまでは木炭を燃料として炉を焚いていましたが、森林資源を大量消費するもので、禿げ山を作ることもあったそうです。日本でも中国地方の山は一時はたたら製鉄によって禿げ山だらけの場所もあったようです。その代替燃料として登場したのが石炭ですが、石炭には硫黄が多く含まれていたそうで、それで精錬すると鉄がもろくなってしまったようです。それがなかなか石炭が使われなかった理由なようですが、石炭を一度蒸し焼きにして硫黄などの不純物を取り除いたコークスを利用したコークス炉を発明することによって、それをきっかけに爆発的な鉄の生産量を得ることに成功しました。また、その石炭を採掘するために発明された蒸気機関、および大量輸送を実現した蒸気機関車のおかげで産業革命と呼ばれる状況まで到達したということです。
上図のアイアンブリッジはその産業革命の象徴的な遺産で、川の両岸を鉄や石炭を運ぶために1781年に架橋されました。建築では19世紀中頃に鉄の建築物が建てられるようになるので、鉄の構造物としては最古のものと考えても良いでしょう。
5-7. 鉄 (7)
ところで製鉄の原材料としては現在では鉄鉱石が主流だとは思いますが、砂鉄というものもあります。中世に興るたたら製鉄では砂鉄を主に使っていましたが、その以前の古代の遺跡ではどちらかというと意外にも鉄鉱石を使ったものが多かったようです。
その後、何度も言葉として出てきている「たたら製鉄」が興ります。「たたら」という言葉は非常に古い言葉だそうで、元来はふいごという意味があり、日本書紀にも蹈鞴(たたら)という漢字で出典があるようです。ここでの意味は「足で踏むふいご」ということで、まさにたたら製鉄における炉に空気を送ることを指すのではないでしょうか。
たたら製鉄は具体的には真ん中に炉があり、その両サイドにたたらがあります。上図のようにたたらの上に人が乗って、ロープにつかまりながらたたらを踏んで風を炉の中に入れていきます。それで火力を出して、原材料である砂鉄を精錬していきます。製鉄の方法や原材料の差などで作られる鉄が銑鉄であったり鋼であったりして、鉄の成分に応じて様々な用途に使い分けられていたと言います。その中でも玉鋼と呼ばれる炭素量1〜1.5%の鋼が日本刀の原材料として珍重されているようです。現在の製鉄方法と比較して酸素系の不純物が多く含まれるようですが、逆にその不純物が刀としての粘りや磨ぎ性を上げるようなので、日本刀としてはこの玉鋼が最も適した材料のようです。
5-7. 鉄 (6)
ここで日本の製鉄の状況を見てみます。先述の通り、エジプトやヒッタイトの時代から製鉄技術があった西アジアとは違い、東アジアでは中国で紀元前700〜500年頃に製鉄の遺構があるものの、日本にはまずは中国からの鉄製品の輸入があったのみで、製鉄となると弥生時代中期頃、あるいは古墳時代と言われています。ただ、弥生時代は紀元前3世紀から紀元後3世紀頃まで600年程度の幅があり、古墳時代と呼ばれるのは弥生後600年までなので、あまりはっきりと時代が特定できていないことが分かります。世界の他の国々と同様に、当初の製鉄方法はふいごを使わずに風通しの良いところに炉を構えるという形で火をおこしていたそうです。その次の時代には「たたら製鉄」と呼ばれる製鉄法が出てきますが、この時点でもこのような炉のことを「たたら炉」と呼ぶそうです。下図は戸の丸山製鉄遺跡という広島の公園内に移築されている古墳時代後期のたたら炉です。
日本の製鉄黎明期とも言える5世紀頃においては、中国・朝鮮半島との距離、鉄資源、炉を燃やすための木材資源との兼ね合いで、炉の遺跡が発見されているのは広島や島根など中国地方が多いようですが、その後、8世紀頃には北は東北、南は九州あたりまで、北海道を除く日本列島の広い地域で製鉄が行われていたようです。
5-7. 鉄 (5)
以上が古代までの鉄の精錬法でしたが、中世に入ると空気を送るふいごについて、人力ではなくて水力による、つまり水車によるふいごが考案され、それに伴って炉のサイズも大きくなりました。シュトゥック炉と呼ばれる中世の炉は8世紀頃から登場し、高さが3〜4mほどもあったと言います。当然、生産される鉄の量も数百キロということなので、ふいごとともに生産した鉄を移動させたり、不純物を取り除くために打つ作業も水力を利用したそうです。ちなみにこれまでの炉は製鉄の度に炉を破壊しなければ、炉中で精錬した鉄を取り出すことは出来なかったそうです。大量の鉄を生産するためには、その都度、炉を破壊しなくても良い方法を考える必要がありました。
中世が終わり、西ヨーロッパがルネサンスを迎える頃、鉄の精錬法にもひとつの発明がありました。精錬の度に壊さなくても良い高炉が発明されました。大きな違いは鉄が溶けるほどの高温状態に温度を上げ、炉の中で溶融したものを収集して使うということとなり、炉を破壊しなくても鉄を精錬できる工程になりました。そして、それまではマキを燃料としていたものを木炭に変えたということで、このような高温の炉を実現するに至りました。
ところでこの場合の還元は高温状態でなされるので、鉄にかなり炭素が混じることとなりますが、それを銑鉄と呼びます。先述の通り、炭素の少ない錬鉄は固くてもろい一方、炭素の多い銑鉄は柔軟性はあるけれど柔らかいというデメリットがあります。基本的にはその中間の鋼程度の材性が色々な製品に使い易いということで、銑鉄の場合はさらに1工程を経て、炭素を除去して鋼をつくるという流れになります。