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5-8. コンクリート (6)
引き続き鉄筋コンクリート造の新たな意匠的な展開を追っていきたいと思います。
1911年にウィーンの中心部で竣工したミヒャエル広場の建物、設計者のアドルフ・ロースの名前を冠して通称ロースハウスと呼ばれています。ウィーンはハプスブルグ家のお膝元の都市として発展し、郊外には17世紀から18世紀にかけて造営されたシェーンブルン宮殿やベルヴェデーレ宮殿などがあり、当時、絶対王政で栄華を極めていた絶対王政のフランスが築いたヴェルサイユ宮殿やフォンテーヌブロー宮殿にひけを取りません。都市においても、パリではオスマンによるパリの大改造が19世紀にありましたが、ウィーンでは街を歩くとどちらかと言えばそれより以前のバロックやロココの建物が目につきます。都市の構造としては、その他の欧州の諸都市と同様に元々は都市防衛を目的とした城壁がぐるりとウィーン市街を囲んでいました。ハプスブルグ家の中心都市だったわけなので、相当な規模のものだったと予想されます。パリと共鳴するかのように、19世紀後半にはその城壁は取り壊されてリングシュトラッセと呼ばれる大きな環状道路が建設されます。これがウィーンの旧市街を規定しつつ、その外側に市街がスプロールしていき現在の姿に繋がっています。
話をロースハウスに戻すと、そのようなバロックやロココのいわば壮麗な建築が立ち並ぶ中心地にこのロースハウスが建設されたわけですが、途中に当局によって建設が中断されるという逸話が残っています。上の写真を見れば一目瞭然ですが、1、2階廻りに比べてその上の階は簡素な作りになっています。その簡素さはややもすれば、貧相に映るということでしょう。
5-8. コンクリート (5)
フランクリン街のアパートは1903年に建てられました。19世紀末から20世紀初頭のこの時期は歴史主義が一段落して、ヴィクトール・オルタやエクトール・ギマールなどに代表される動植物をモチーフとして多用したアール・ヌーヴォーや幾何学のグラフィカルな構成を好むアール・デコが流行った時代です。ペレのこのフランクリン街のアパートメントでも外壁部分には花柄やドット柄をタイルで表現したりして、装飾的な当時の風潮を反映しています。
フランクリン街のアパートメントから20年後の1923年になりますが、もう1つの代表作であるノートルダム・デュ・ランシーの教会が竣工しています。パリの北東郊外のランシーに建てられた教会ですが、こちらも同じくRC造でできています。オーソドックスな教会の構成の通り、向かって正面を見て天井高が高い身廊の両側に少し低めの側廊があるという構成は守っていますが、なんといっても外壁が全てコンクリートを枠にしたステンドグラスとなっていることが最大の特徴です。外壁を壁と窓で構成するのではなくて、全てが窓のように、かつカラフルな光に満たされる極めて美しい空間を獲得しています。またこの空間を成立させているのは、壁構造ではなくて柱梁構造で屋根架構を支えるということがはっきりと意図されていることです。外壁側に落ちる柱はステンドグラスの外壁からは少し内側に入れることで、外壁のステンドグラスを連続させています。このようにほっそりとして高さのあるRCの柱が出来るのは、フランスでは地震の横力を考慮していないからです。日本では現在でもやりたくても出来ない架構です。
5-8. コンクリート (4)
先述の通り、鉄筋コンクリートを考案したジョセフ・モニエは植木鉢のために、そしてそれを建築用の技術にまで高めて建物を実現したフランソワ・エンビックなどはあくまでもエンジニアだったため、建築意匠における鉄筋コンクリートの可能性を提示したとは言えません。そのような意味で建築意匠において鉄筋コンクリートの価値を見いだした最初期の建築家の1人がオーギュスト・ペレ[August Perret]です。
パリ16区、エッフェル塔を対岸に臨むシャイヨー宮の脇にrue Benjamin Franklin すなわちフランクリン街があります。前面道路の向かいにはシャイヨー宮の一部である国立海洋博物館の庭が広がっており、急な勾配の坂の先にはセーヌ川が流れています。南東向きにファサードが面しているこの建物はこの好立地を最大限に享受しようということだと思います。向かって左側の階高の高い建物に階高を合わせて調整し、RC造ならではの開口部の大きさを獲得しています。前面道路から引っ込む形で正面中央部を逆ボウ・ウィンドウのようにボリュームを操作して、南東ファサード向きのガラス面をさらに大きくしています。このように組積造の建物を両隣に挟んでみると、RC造の柱梁の組合せがとても軽快に出来るということが相対的に見て取れます。
5-8. コンクリート (3)
パンテオンの場合は直径43.2mの円形平面にコンクリート製の円筒及びドーム型の屋根が架けられており、床から天井高さも43.2mという、ローマ建築らしいオーバースケールの建物となっています。これだけの構造物を成立させるのに工夫がなされていて、円筒部分の基礎から2階までを3種類、天蓋部分も3種類の合計6層でコンクリートを打ち分けていて、骨材の種類を変えることで上にいくに従って軽くなるような作り方をしています。断面的にも基礎部分の壁厚が6mにもなる一方で、天蓋の頂上付近では1.5m程度だそうで、このような一見単純かに見えるような建物も、その巨大さを成立させるための様々な技術的な工夫が施されていることが分かります。
コンクリートについては、引き続きローマ帝国の版図では建築されることもあったようですが、西ローマ帝国の崩壊とともにコンクリート製の建築物も忘れられたようです。ローマが終わり中世に入ると文化的な衰退が始まったと言われるのは世の通説ですが、コンクリート建築物についても一旦は時代から忘れ去られたということです。文化的には13世紀頃からルネサンスが始まり、ローマの栄華が再び盛り上がるような言われ方がしますが、コンクリートの場合はその後1300年の時を経て、再び日の目を見るのは先述の通り、19世紀の中頃になってからのことだったようです。
5-8. コンクリート (2)
さてここで一旦、鉄筋コンクリートが発明される19世紀以前のコンクリートについて俯瞰しておきます。
RCではなくてコンクリートだけで考えた時には、実は古代の時点でコンクリート製建築物は存在しています。最も有名で完璧な姿で残っているのはローマのパンテオンです。
現代で一般的に使用しているコンクリートにはポルトランド・セメントと呼ばれ、工業的に生産されているものです。アルカリ性になる化学反応によって結合しており、それが炭酸化し表面から中性化することで徐々に強度を失います。一方でローマンコンクリートと呼ばれる古代ローマで使われていたものは、固化する成分がアルカリ性ではなく、カルシウムをあまり含まないので酸に強く、耐久性が非常に長いと言われています。古代ローマの建築ではパンテオン以外にも、コロッセオなども古代コンクリートによって作られていて、今なお現存しています。
施工方法は現代と同じで型枠を組みそこにコンクリートを充填していくというやり方だったそうですが、現代との違いは粗骨材や細骨材がモルタルと混ぜられた状態で型枠に流されるのではなくて、骨材を予め型枠に入れておいてそこにモルタルを流し込んで、空気抜き、締固めを行っていたそうです。また壁の場合には型枠に石やレンガを用いて、コンクリート打設後は型枠を外さずにそのまま仕上げとして扱っていたとのことです。また天井の場合は型枠が石やレンガというわけにはいかないので、木型枠で打設し、その後型枠を外して、打ち放しのままあるいはスタッコや石張りとして仕上げるということをしていたとのことです。