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“自分”
自分を解ることは難しい。解らないから人生が歪みやすい。自分の人生の歪みを朧げに感得する人は多そうだけれど、何故か自分を明確に解ろうとしない。解る知能がありそうに視えるのだけれど、何故か観ようとしない。ほんとうは知能がないのかもしれない。
偏差値の高い大学を目指す人は例外なくコンプレックスが強いという説がある。ハイティーンの最も多感な時期に最も大切なものに気付かず、ていどの低い勉強にうつつを抜かすのはよほど知能が低くなければできない。知能が低い人は可哀想だと高校生のわたしは考えていたのだが、東大生はコンプレックスが強いのかもしれないと近頃は考えるようになった。調べると、東大に落第した人東大に受かった人にも多い。東大を受験しなかった人にも多い。わたしはどちらかといえばバランスの悪そうな東大出身者を好きなのだけれど、東大出身者には東大を好きな人が多そうで不気味な感じがしないでもない。わたしの高校の教頭先生は東大出身者だが東大は下らない学校だ、カミさんと知り合えたことだけが良かったと言っていた。勉強して一番になるのは少しも偉くない、勉強しないで一番になるのが一番偉いとも言っていた。大学世界ランキングでいえば東大は30位前後でしかない。コンプレックスを劣等感と解釈する日本人が多いのは劣等感という解釈が好きなのかもしれない。
承認欲求とコンプレックスは似ているところがあるけれどイコールではない。わたしは表現欲求が強いけれど承認欲求とは本質的に異なる。
哲学の話が好きな人がいる。対談であったり文章であったりするけれど、人の名前しか出なかったりすることに吃驚する。哲学者の名前を引用すると哲学が解っている気分になるのかもしれないけれど、名前の引用ではなく日常のみずからの行為にたいしてのみずからの見解をなぜ語らないのか。触覚の本質が欠落しているか自らを語ろうとしないかのいずれかである。
気がつく
30歳を過ぎて自ら気がつくことがあっても人から言われて気がつくことはない。稀に気がつくことがあっても3歩あるけば忘れる。そんなことは言われていないは始まるまえから終わった人である。
学ぶ
生徒とは徒に生きると書く。
学生は生を学ぶと書く。
質問は命令形だから、本来はくだらない質問をしてはいけないのだが、生徒が先生にすることは已むを得ないとしよう。だが学生なら、まずはじめに本質はなんだろう、何故そうならざるを得ないのだろう、最終的目的、全体の背景はなんだろう、と考えてからでなくては、教授に対し失礼にあたる。