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ドラマを見ていると、
優れた脚本と優れた役者だけで、演出家は不要としばしば思う。
実際演出家は存在しなかったのかもしれない。
映画は優れたつくり手とファンが居れば十分であり、評論家は不要である。
映画を作れない人は単に”すばらしい”とか”下らない”くらいで充分である。
映画の価値は観客の生き方によって左右される。
家族とか友人とのつきあい方の違いも、
仕事のかかわり方の違いも個々の生き方の相違なのだと思う。
映画を観ることにより自分の生き方を弁証法的に観るのだと思う。
自分の生き方を抜きにして映画を観ることのできる人は理解不能である。
考え方が良ければ成功する。
成功しなければ、必ず考え方が悪い。
不運なのではない。考え方が悪いのだ。
考え方が悪くても、稀に成功する場合もあるが、続かない。
考え方が悪ければ、必ず失敗する。
*都知事選について
原発に注ぎ込んだ50年の歴史と莫大な資金の成果を、
電力族の人為ミスにより一切を否定しようとする考えは、
情緒としか言いようがない。
原発のそばに住めますか、という人がいるけれど、
航空機にせよ、事故、病気、地球温暖化、その他リスクがあります。
リスク係数はどれが大きいのか、
何がコントロール可能なのか、
少なくとも原発が最大のリスクであるということを
誰も証明しようとさえしない。
証明しようとする議論も算式も見たことがない。
只あるのは新興宗教的情緒的「原発即時中止!」のみです。
脱原発から票をとれると考え、温暖化、エネルギー問題の解決策も示せず
脱原発と唱えるのは詐欺です。
*親について
親について考える時、思い出す小説があります。山本有三の“波”と芹沢光治良の“人間の運命”です。“波”の主人公は、自分の子ではないのではないか、と思い悩むのですが、最終的に波と戯れて遊んでいる子を見て、血が繋がっているか否かは、何の意味も無いのだ、という結論になります。“人間の運命”の主人公は、親の行為の一切を否定し、血が繋がっているから親である、という見解には意味が無い、と考えます。周囲に尊敬する人が居て、牧師なのですが、その人が本当の親のように主人公に接するわけです。主人公は、本来の親はその人である、本当の親とはそういう人の事である、と考えるわけです。