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衣服と建物

建物と衣服は似ているように思います。

建物は道具というより着る方に近いと思うんです。良い衣服は人と会った時に、多分、印象が残らないんだと思います。良い衣服は本人とともに印象に残るように思います。それで本人の特性がそこに表現される。その役割を衣服がお手伝いをする、それが僕が思う良い服。人と会った後に本人の印象が残らないで、服の印象しか残っていないのは、それは悪い服だろうね。

結局、服って「こういう風にみられたい」だとか、あるいは「こういう風にはみられたくない」ということがあると思うんですよ。そういう観点でみんな例外なく服を選んでるんだよね。人と会って、別れて、その人の印象が残っていなくて、服の印象しかないっていうのはやはりセンスがないということでしょうね。

それは建物でも同じで「こういう風にみられたくないから、こういうビルに入りたくない」ということがあると思います。例えば、取引先の担当者が来るとき、新卒・中途の人を募集するとき、そこではひとつには衣服を通してその人を想像するわけです。そういうのと同じように、会社が入っているビルを通して、その会社をイメージするんですよ。だから優れた経営者はそれが分かっていて、商売しやすいような、人を募集しやすいようなビルを選ぶんですよね。

いい建物

例えばお客さんが事務所を借りる時には、担当者や窓口の責任者は大企業だと総務部長さんだったり、小さい会社だと社長さんだったりするんですね。そういう人たちは長い間働いているわけだから事務所の立地に関して詳しい人が多いので、地図をみて場所が分かるし、建物の図面も読める。それで見に行くかということになると、あとは建物さえ良ければそこに決める筈なんですよね。立地は分かってる、平面図や外観の図面も見てるし、賃貸条件も分かっている。そういうことを全部わかった上で現地を見に行くわけだから、お客さんが気に入るかどうかの割合は建物に依存する部分が大きいと思うんです。

そういう風に私は若い頃、考えたわけです。気に入られる建物を造り、100%満足して頂かなければいけない、そう思ったんです。建物で分かれるんです。今も変わらず、そう思っています

食品偽装表示問題を通じて

商売って何が何でも稼ごうと思えば、下品にならざるを得ない。場合によっては、悪いことをしなくちゃいけないこともあるかもしれないし。無論、悪い方向に行く場合には、「そんなに悪いことではないだろう」という風に本人の感覚や判断基準を軌道修正していくんでしょうね。例えば最近の食品関係の偽装表示問題も、僕が経営者側の立場に立ったときに「ああいうことを私は絶対にしない」という自信はないよね。そういうことをする前の状態が赤字スレスレで従業員にボーナスも払えない、給与も上げられない、設備の修繕の費用も出ない。でもああいうことをすれば、ボーナスを払えて、給与も上げられる、工場も衛生的に出来るとなった時に、あれをやらないでいられるかは自信がないよね。そういう背景、立場に立った時に本当にしないでいられる人間は、どの位いるんだろうか。

一方的にあれを批判する人は、その立場に立ったら何の疑問もなくやるでしょうね。自分について疑問をもたない、ものを考える習慣が無いということでしょうか。

だからいろんな事件が起こる度に、その立場に立っても自分がしないでいられるか、というのはいつもわたしは不安に思うよね。

つきあい方について

 昔、日経BP社の人とヨットに行ったことがあって、ひとと飯を食ったら私はメンバーの分も全て払う習慣があるんですよ。そしたら帰り際に払いますっていうから、私は「私がみんなの分も払っているから、受け取らない習慣なんだ」という説明をしたんですよ。そうしたら帰りに座席に1万円札を置いていきました。ああ、日経って良い会社だなって思いましたよ。彼は不動産関係の雑誌だったから。自分の商売と関係のないところだったら良かったのかもしれない。

 これが相手が官庁関係だったら大変だね、手が後ろに回っちゃうから。

コンプライアンスのはなし3

コンプライアンスは法律を人に守らせることでは無くて、自分で守ることですよね。他人じゃなくて、自分が守れば良い。自分がその法令違反に加担していてまずい影響があると判断した場合には、会社に意見をして止めさせるか、会社が止めないならば自分が辞めるかのどっちかだよね。法令違反をしている会社に勤務しているということは、法令違反を助けているということだから。本来ならば辞めなきゃいけない、それが法令遵守ですよね。自分がどうするかということだと思います。