美醜

佐々木(以下、Sa):中沢新一さんと2回くらい飯を食ったことがあります。そのときに美とは何ぞやという話をしました。美は人間がつくった概念で、人間が認定して美という言語をつくった。そして美として認識します。「美は人間のものと思っているが、どうでしょうか?」と訊いたんですよ。そうしたら、「佐々木さん、それは違うよ。人間がいるいないに関わらず美はある」って。たぶん、彼が言おうとしているのは、一切合切すべてが美だということだと思います。宇宙そのもの。美でないものはない、と彼は言おうとしたんじゃないのかな。それでもう話を止めました。どう思う?

本橋(以下、Mo):それはどうでしょうね。一切合切が「美」であるとすれば、そもそも「美」という言葉が必要ない気がします。「美」という言葉があるのならば、それの反対の概念の「醜」が存在しているはずです。対概念として成立しているものだと思いますが。

Sa:そもそも美と醜を分けたのは人間だもんね。しょせん人間の知恵もその程度だってことのような気もする。愛憎っていうでしょ。好きと嫌いは紙一重って。やっぱり考え直してみても良いと思う。美と醜という概念をつくった事自体、個々についてもう一度振り返ってみれば、美と醜は変わらないんだという結論になるかもしれない。言語自体が人間がつくった言葉であって、それは私は分からないと思う。

 やっぱり目線の高さが違うのだと思います、中沢さんの。同じ状況に出くわして、いやだなと思って嫌悪感を抱く人もいれば、いいなって思う人もいるわけですよね。それはその人が経験してきた人生によって変わってくるとは思うのだけれど。だから美と醜は背景にそういうことがあると、若い頃はずっと思っていたのだけれど。ただ疑問なことは、夕陽が沈む水平線であるとか、山々が遠くまで見えるとか、晴れ渡るとか。例外無く、みんな感動するし、美しいと思うんですよね、どんな境遇の人であっても。とすれば、どこかに中沢新一さん的なものがあるとしか考えられない。人間がつくったものではなくて、それ以前に共通のものがあるんじゃないかという疑問がありました。2つもっていたわけです、疑問を。

Mo:矮小化した質問かもしれませんが、ネコに夕陽を見せて美を感じるでしょうか?

Sa:例えば、人間がそこにある石を認識して、だから石が存在するという考え方があるよね。一方で、人間が思うか思わないかに寄らずに、石がそこに落っこちてるから石があるんだという考え方もあるでしょ。

 だから同じことを言っているように見えて、違う問題のことを言っているように思える。違う世界のことを銘々が言っていて、そのことを続けても絡み合わないよね。

Mo:なるほど。つまりたまたま今は同じ「美」という言葉で語られている、2つの違う概念ということですね。

Sa:そう。まあ、両方普通は思うよね。

 あとは無関心と関心。無関心というのは目の前を通り過ぎてもないのと一緒だよね。関心というのは、嫌いであれ好きであれ、反応するわけです。反応するというのは対象として受け止めているという関係だから。