諦むるとは明らかに見ることなり

子供の頃、私の田舎の家に仏壇がありました。そこの引出しを開けると経本、お経の分かりやすい本があったんですよ。蛇腹になっているその中の一つに「諦むるとは明らかに見ることなり」という言葉が書いてありました。明らかに見れば諦めるしかない、ということですね。驀進できる、可能性をもっているということは、明らかに見ていないということになりますね。(笑)中学生の頃にそれを見たのだけれど、「こういう考えはどうも理不尽だ、認められない」と思いましたが、今は認めています。

物事を明らかに見れば、可能性があるかどうかがまずははっきりするわけです。可能性のないものに対して、それ以上を求めない。出来るものかどうかがわかる、誰なら出来るかははっきりとわかります。あとはその人がどのくらいアプローチすればこれくらいプラスになるであろうとか、目一杯やってもプラス面はないであろうとか、明らかに見るということはそれがやる前からはっきりわかるということです。つまり明らかに見れば、ある一定以上の期待をする必要がないわけですね。そこで「諦むる」わけですね。(笑)

だからといって、人生を放棄するという意味だとは思いませんよ。もって生まれた運命というものがあるとして、それを変えられると思うことが諦めないことだというのは、やっぱり甘い気がします。「諦むる」というのは本質をきちっと見ることであると思う。過大な期待もしくは失望は、自分もしくは相手が見えていないんですよね。私としては、今は少しだけ見えてきているように錯覚しています。やっぱり思いが強ければ強いほど、結果的に過大な期待もしくは失望となってしまうのではないでしょうか。

ただ、「諦める」には物事をキッチリと明らかに見ることが条件になりますが、それをせず、「諦むる」に直行する人が多いようにも思います。